芦田均

芦田均

芦田 均(あしだ ひとし、1887年(明治20年)11月15日 - 1959年(昭和34年)6月20日)は、日本の外交官、政治家。位階は従二位。勲等は勲一等。学位は法学博士(東京帝国大学)。

衆議院議員(11期)、厚生大臣(第14代)、外務大臣(第76・77代)、内閣総理大臣(第47代)などを歴任した。


 概観
終戦直後の日本政治の中心人物の1人。鳩山一郎を中心とする日本自由党の結成において、指導的役割を果たした。幣原内閣に入閣しながら、総選挙後の“居座り”に対して厳しく対応し、単独閣僚を辞任して内閣をして内閣総辞職に至らしめた。

第1次吉田内閣時代に、衆院憲法改正特別委員長として大いに活躍したことは特筆に価するものだった。1947年(昭和22年)には自由党を離党して民主党を創設し自ら総裁に就任した。片山内閣成立にあたっては、これに反対する幣原喜重郎らを抑えて、日本社会党・民主党・国民協同党による3党連立内閣を実現させ、副総理格の外務大臣として入閣。さらに社会党の内紛によって片山内閣が崩壊した後は、禅譲の形で首相に就任した。芦田内閣は昭和電工疑獄事件(昭電事件)により、わずか7か月余りの短命内閣に終わり、晩年は不遇だったが、終戦直後の活躍には目を瞠るものがあった。

 生涯
 前半生
 
1931年、外交官時代芦田は1959年(昭和34年)6月20日、芝・白金の自宅において死去した。現職の衆議院議員だった。4日後の6月24日、衆議院本会議で追悼演説が行われた。演説したのは1947年から1948年の社会・民主・国民協同3党連立内閣のパートナー・片山哲元首相だった。芦田と片山は大学時代の同級生でもあった。芦田の人生が見事に整理されているので、少し長くなるが片山の追悼演説を引用する。

「芦田君は、京都福知山市中六人部の旧家の出でありました。明治20年11月、元本院議員芦田鹿之助氏の次男として生まれ、長じて第一高等学校を経て東京大学法学部に学ばれました。親子2代本院議員として活躍されたのであります。……君は、学生時代から秀才の誉れ高く、在学中、すでに外交官および領事官試験に合格せられた……。明治45年、卒業とともに露国在勤の外交官補として赴任せられ……その後大使館三等書記官、外務書記官兼参事官、大使館一等書記官として欧州各国に歴任せられた……。昭和7年、ベルギー在勤の大使館参事官を最後として退官し、当時横暴をきわめておりました軍部外交と戦わんがために、直ちに立憲政友会に入党し、同年2月の第18回衆議院議員総選挙に京都府第二区から立って、みごと当選の栄冠を得られた……」

政界入り後の芦田の政治活動について片山は高く評価している。第一に外交問題について軍部の圧力に屈しがちな政府の外交方針に鋭く迫ったこと、第二に1936年(昭和11年)、天皇機関説排斥運動が起きたとき、美濃部達吉を擁護するため率先して奔走したこと、第三に1940年(昭和15年)、大政翼賛会運動が起こったときには、議会政治を否定するものとして敢然としてこれに反対し、翼賛議員同盟の結成に参加せず、尾崎行雄、鳩山一郎、川崎克らと「同交会」を組織し、翌1941年(昭和16年)の翼賛選挙には非推薦で出馬し当選した。また、斎藤隆夫の反軍演説の際、除名に反対票を投じた(ちなみに反対票を投じたのは芦田・牧野良三・宮脇長吉ら7名のみ)。終戦とともに、筋金入りのリベラリスト・議会政治家である芦田が活躍できる時代が始まった。前述した終戦直後の芦田の大活躍は、芦田時代の到来を予感させた。しかし、芦田には不運がつきまとっていた。

 現実主義者芦田の政治姿勢
 
1945年10月9日、幣原内閣の閣僚らと
1948年3月10日、芦田内閣の閣僚らと1948年(昭和23年)2月の片山内閣崩壊とともに芦田の出番がきたが、芦田の行く手に立ち塞がったのは吉田茂だった。片山内閣崩壊後の内閣のあり方について、片山は「崩壊の原因は社会党の党内事情によるものであって連立政権の政策そのものが行き詰まったわけではない」との立場から、芦田への政権移譲は当然だと主張した。GHQ民政局も片山を支持し、社会・民主・国協の中道連立政権の存続を望んでいた。だが、吉田自由党は片山から芦田への移行は「政権のたらい回し」であるとして芦田の登場を厳しく批判した。新聞各紙もこれに同調し、国民世論も芦田の登場に疑問を持った。芦田政権はスタート時に大きくつまずいたのである。

2月21日の首班指名選挙は、衆院は芦田216、吉田180の僅差だった。参議院では芦田102、吉田104で逆転された。衆参両院の議決が異なったため両院協議会が開かれたが、不調に終わり、やむなく衆議院の優位性の憲法規定により芦田内閣は発足した。だが、対する吉田民主自由党は、芦田内閣に反対する幣原派を糾合して社会党を上回る第1党に成長した。芦田は内閣を組織するに至ったが、当時の政府の課題-食糧問題の解決、インフレーションの克服、生産の増強、失業の解決など-はいずれも占領政策の枠内でしか動けないことを十分に知っていた。芦田は当時こう書いている。「私の見る所によれば、占領軍治下における政府としては、誰が政局を担当しても、連合国の占領政策の線に沿って政治を行う以外に道はない」。芦田内閣は弱体であったが、この政権下で多くの重要法案が制定されたことは記憶にとどめるべきだろう。中小企業庁設置法、石炭庁設置法、国家行政組織法、建設省設置法、海上保安庁法、水産庁設置法、教育委員会法、日本学術会議法、地方財政法、検察審査会法、軽犯罪法、警察官職務執行法、経済調査庁法などである。

また前任の片山が、社会党委員長・クリスチャンでありながら昭和天皇の護持に心を砕いたのに対し、芦田は憲法に記載されている通り、天皇を元首としてではなくあくまで象徴として扱うことを心がけた。首相就任当時、芦田は、これ以降閣僚の上奏を取り止める旨を奏上した。芦田自身も外相時代、天皇に上奏をほとんど行わなかったため、侍従長にしつこく呼び出された。

 芦田内閣の崩壊
しかし芦田内閣は西尾献金問題と昭和電工疑獄事件(昭電事件)で惨憺たる結末を迎える。西尾献金問題とは、西尾末広社会党書記長が土建業者から50万円を受領した事件である。西尾は政令違反と偽証罪に問われたが、結果は無罪だった。昭電事件は、復興融資など、昭和電工が利便を得るために日野原節三社長によって行われた、政官財工作に伴う贈収賄事件であった。この事件で、栗栖赳夫経済安定本部総務長官と西尾末広前副総理が逮捕され(来栖有罪、西尾一審有罪・二審無罪)、芦田内閣は瓦解した。その上、芦田自身が内閣総辞職後に逮捕され起訴された。しかし、判決は「金をもらっているが、外務大臣の芦田には職務権限はない」として無罪だった。昭電事件で事情聴取された者は約2,000人、逮捕者64人(うち現職国会議員10人)。裁判の結果は有罪2名のみだった。昭電事件について『自由民主党史』は次のように記述している。

こうした(昭電事件追及の)司法の動きの背景には、この頃の米国の対日政策の‘改革から復興へ‘という漸次的転換に伴って、それまでGHQ内で圧倒的な力を持っていた民政局に対抗して、G2(参謀第2部)を中心とする反民政局勢力が無視しえない発言力を持つようになったという状況の変化があった。すなわち、芦田連立政権の倒壊は、民政局とG2の権力争いによりGHQが全体として‘指導力‘を弱体化させてきたことを物語っている。

占領軍内部の勢力争いに日本の政治が翻弄されたのである。民政局は社会・民主中道政権を好み、バックアップした。しかし、GHQ内の反民政局派であるG2の力が強まり、民政局派対G2派の権力争いが激化し、昭電事件がこの抗争に利用されたのである。民政局と関係の良かった芦田はこの抗争の犠牲になった。芦田内閣崩壊後の山崎首班工作事件(狙いは吉田首班阻止)は民政局側の最後の反撃だったが、これは成功しなかった。国が占領下に置かれていたがゆえの政局混乱であった。

また、西尾献金問題が派生して政党創設問題が浮上して、芦田自身も証人喚問をされた。占領期以降の晩年は、歴史書を書き残す事に重点を置いた。『芦田日記』は占領期の歴史を当事者の立場で書く為の備忘録であったが、1959年に『第二次世界大戦外交史』を病床で口述筆記により完成させて亡くなった。

 

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