山本一太

山本 一太

山本 一太(やまもと いちた、1958年1月24日 - )は、日本の政治家。自由民主党政調会長代理兼同党参議院政策審議会長。シャドウ・キャビネット内閣官房副長官。参議院議員(3期)。完全無派閥。

 来歴とエピソード
1958年1月24日、群馬県吾妻郡草津町出身。中央大学法学部卒業後は朝日新聞社に入社。

父の死去に伴って1995年の第17回参院選に群馬県選挙区から世襲候補として出馬し初当選。同年の自民党総裁選挙において小泉純一郎が出馬するため必要な推薦人集めに奔走する。小泉は出馬したが結果は惨敗だった。

2005年の第44回衆議院議員総選挙において、郵政解散直後に小泉総裁と直談判した際には全選挙区に郵政民営化賛成派を立てることを実現させるためなら自ら刺客として衆議院への鞍替えをしても構わないと言ったが、小泉首相秘書官の飯島勲によって却下された(飯島はすでに全選挙区で郵政民営化賛成候補を揃える目星をつけていたことや、選挙区当選の山本失職による補選などによる参議院議席の影響を考慮したため)。

なお、郵政国会で郵政民営化法案採決に欠席して衆院選における郵政民営化賛成の誓約書に署名せずに無所属出馬(最終的に署名し、自民党公認候補となる)の可能性も報道されていた小渕優子の群馬5区での立候補を志願したと噂された。(山本の生まれ故郷の吾妻郡等では双方の先代の時代から「小渕・山本」の支持者が重なっている)

これについて、山本は「2005年の刺客志願は、自民党が全選挙区に郵政民営化賛成派を立てるべきだが、相手が強くて候補者が見つからない選挙区が存在すれば、自分が捨て石になってでも立候補をするという意気込みを小泉総裁に示したものであり、自分から特定の選挙区を志願したり提示されたわけではない」と噂を否定をしている。

2006年の自民党総裁選挙では早くから安倍晋三の総裁擁立を訴えたため、地元群馬では福田康夫を推す福田寄りの自民党群馬県議が反発。

自民党群馬県連では福田系から現職の山本を2007年7月の第21回参議院議員通常選挙の群馬県選挙区で推さずに、2004年参院選で落選した上野公成を自民党公認候補に推す動きも出たが、最終的に山本が選挙区公認候補となった(上野は比例に回った)。

2007年の参院選においては年金問題や政治と金の問題などでの与党への逆風が吹き、また参院選と同時期に群馬県知事選挙が実施されたため、自民群馬県連は県知事と参院選に分かれて運動せざるを得ず、参院選のみに力を注げない状況だった。だが自民・公明の組織票のほか、角田義一の違法献金疑惑でレースから外れた民主党支持層の一部にも食い込み戦いを優位に進め、結果的には、 参議院・群馬選挙区史上最大の得票数で当選する。

2007年の自民党総裁選挙では、安倍内閣の後継者と目された麻生太郎ではなく、同じ群馬県選出議員であり同じ派閥に所属する福田を、福田の総裁選挙の政策が発表されていない時期から支持した。9月27日、安倍が麻生包囲網の原因となった「麻生太郎クーデター説」を否定するために記者会見を開こうとすると、「やめたほうがいい。安倍総理の将来にとって、けっしてポジティブな結果を生まない」とブログに掲載した。

2008年8月発足の福田康夫改造内閣で外務副大臣に就任。

直後の8月26日にアフガニスタンで起きた邦人の拘束・殺害事件の対策本部長となる。事件発生の当日、自身のブログで「これから10日間は(理由があって)『頻繁な更新』は出来そうもない」と事件についてほのめかしながらも、被害者の死亡が確認される翌27日までの間に11度、事件と関係のない更新を行い、「(笑)」「(ニッコリ!)」「(苦笑)」などを連発した。さらに、このようなブログの更新を、外務副大臣室でも頻繁に行っていることを自身のブログ上で明らかにしている。

その後、福田総理総裁辞任を受け、9月5日、自民党総裁選への出馬を表明し、外務副大臣の辞任を表明(1972年に自民党総裁選で推薦制が導入されて以来、参議院議員の自民党総裁選立候補表明は初である)。河野太郎ら、プロジェクト日本復活のメンバー6人に支持されたが、出馬に必要な20人の推薦人集めに難航し、棚橋泰文との一本化も決裂したために3日後の9月8日に出馬を断念した。

2010年4月、所属していた町村派を退会。同年8月11日に行われた党参議院議員会長選挙では中曽根弘文の推薦人に名を連ね、当選させた。山本も政調会長代理・参院政審会長に指名された。

 

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