三木武夫

三木武夫

三木 武夫(みき たけお、1907年(明治40年)3月17日 - 1988年(昭和63年)11月14日)は、日本の政治家。位階は正二位。勲等は大勲位。

衆議院議員、逓信大臣(第52代)、運輸大臣(第17・18代)、経済企画庁長官(第6代)、科学技術庁長官(第5・10代)。通商産業大臣(第27代)、外務大臣(第95・96代)、国務大臣、環境庁長官(第4代)、内閣総理大臣(第66代)などを歴任した。

 来歴
 生い立ち
 
1935年頃、明治大学雄弁部にて活動徳島県板野郡御所村吉田(後の土成町、現・阿波市)に農業のかたわら肥料商を営む父・三木久吉の長男として生まれる。御所村尋常小学校卒業後、1920年(大正9年)、徳島商業学校に進み弁論部に所属する。

徳商4年の時、武夫は野球部の甲子園出場を目指し道具等を新調する資金集めをすることを発案し、そのためにバザーを開き成功をおさめた。しかし、学校側はその収益金を野球部ではなく学校全体で使うことを決定したためバザーを主催した武夫らはその経費公開を巡って校長以下学校側と対立し中学生でありながら全校生徒が授業放棄によるストライキを決行するに至った。そして武夫は学生ストを煽動したとして放校処分となった。

その後、神戸市の私立中外商業学校(現・兵庫県立尼崎北高等学校)に転校した。中外商業時代、後に林内閣の大蔵大臣、第15代日本銀行総裁となる中外商業理事長の結城豊太郎の知遇を得た。中外商業卒業後、旧制明治大学専門部商科に進み卒業した後に、南カリフォルニア大学に入学したが、卒業はしないまま日本に帰国。のち、旧制明治大学法学部法律学科入学し卒業した。(在学中は雄弁部にて活躍)。

 帝国議会
明治大学卒業後の1937年(昭和12年)、林内閣は衆議院を解散した。それにともなう第20回衆議院議員総選挙に立候補し、初当選を果たした。投票の一週間前に被選挙権を得る際どさだった1942年(昭和17年)の第21回衆議院議員総選挙では、翼賛政治体制協議会による推薦を得ずに当選した。

三木は戦前の帝国議会時代からの代議士であるが、反軍演説を行った斎藤隆夫の除名に賛成をしたものの、基本的には軍部に対しては批判的な立場を取り、大日本帝国憲法の起草者の一人である金子堅太郎を担いで「日米同志会」を結成して対米戦争反対の論陣を張った。また大政翼賛会にも参加せず、翼賛選挙も非推薦で当選した。戦前は三木と同じく翼賛選挙で非推薦で当選した尾崎行雄と安倍寛を政治上の恩師と仰いだ。

 国会
 
1952年、改進党総裁重光葵(中央)、楢橋渡(右)戦後は公職追放を免れ、保守・革新の双方と一線を画した中間派政党の国民協同党では書記長・中央委員長を務め、日本社会党首班の片山内閣で初めて入閣(逓信大臣)した。その後は保守勢力との協力を進め、苫米地義三の国民民主党、重光葵の改進党、鳩山一郎の日本民主党を経て保守合同に参加し、自由民主党に加わった。

1958年(昭和33年)6月には第2次岸内閣で経済企画庁長官・科学技術庁長官に就任するが、警職法改正案をめぐって12月に閣僚を辞任した。1960年(昭和35年)の日米安全保障条約の本会議の採決の際には会期延長のみを事前に知らされており安保の強行採決まで知らされていなかったため会場で採決を知り採決直前に退席している。

第2次佐藤内閣・同改造内閣では外務大臣を務める。在任中、非核三原則が返還後の沖縄にも適用されると明言して佐藤首相と対立し、外相を辞任。1968年(昭和43年)の自由民主党総裁選挙に「男は一度勝負する」と述べて出馬し、大方の予想を覆して大善戦するも佐藤に敗れた。2年後の同選挙にも周囲の反対を押し切り、「私は何も恐れない。ただ大衆のみを恐れる」と述べて再出馬。一定の票を獲得したが、佐藤の4選を阻止するには至らず敗退している。

1972年(昭和47年)、福田赳夫と田中角栄の争う総裁選では、三木自身も出馬したが日中国交樹立に積極的な田中を支持し田中は当選、第1次田中角栄内閣に国務大臣として入閣し、後に副総理にも指名されている。さらに第2次田中角栄内閣では副総理兼環境庁長官に就任する。しかし、1974年(昭和49年)の参議院選挙において田中角栄が、1人区の徳島県選挙区で、新人の後藤田正晴を自民党の公認候補とし、三木派で現職の久次米健太郎を非公認としたことから三木は反発し、分裂選挙となる(三角代理戦争)。選挙では久次米が再選されるも、それまで関係が良好だった田中首相と大きく対立し、単独で副総理を辞任。

 首相時代
「三木内閣」および「三木内閣 (改造)」も参照

1974年(昭和49年)12月、田中総理の内閣総辞職で行われた後継総理選出において、椎名悦三郎副総裁の指名裁定で総裁に就任(椎名裁定)。この裁定は三木自身が「青天の霹靂」とコメントしたほど意外性をもって受け止められた(なお、三木には椎名裁定以前に椎名から事前に指名される旨が伝えられている。)。これについては、金権政治に対する批判を一時的にかわすためであると見られたことと、後述する三木の政治的な立ち位置をもじって「左のワンポイントリリーフ」とも評された。

三木政権は政治浄化に着手し、公職選挙法や政治資金規正法を改正し政治献金の額に上限を設けさせた(三木は当初企業献金の全廃を意図していたが党内の猛反発に遭い断念した。これが三木おろしの遠因になったという説もある)。また防衛費1%枠を閣議決定した。

ロッキード事件が起こると三木おろしの倒閣運動が起こる。しかしこの動きは「ロッキード隠し」としてマスコミや世論の反発に遭い挫折し、三木政権は延命する。世論を背景とした三木はロッキード事件の全容解明を表明。事件において存在したとされる金銭授受に関連して、外為法違反の疑いでの検察による田中逮捕を許可した(法務大臣が中曾根派の稲葉修であったことも疑惑追及に資することになった)。ロッキード事件での田中の逮捕を逆指揮権発動によるものとみなした田中派からは稲葉と共に激しい攻撃の対象となった。

田中逮捕により、「もはやロッキード隠しとは言われない」として三木おろしが再燃、反主流6派による「挙党体制確立協議会」(挙党協)が結成される。挙党協には党内393議員のうち277議員、閣僚20人のうち15人が参加する有様で、派閥単位でも田中派・大平派・福田派だけでなく、中間派とされた椎名派・水田派・船田派が賛同し、政権主流派に与するのは三木派の他は中曽根派だけとなる。三木は内閣改造を行ったが、ここで田中派からの入閣は科学技術庁長官1名だけであり、三木も田中との対決姿勢を改めて鮮明にする。

その後体制一新を求める挙党協と解散での対抗をちらつかせる三木との間で暗闘が繰り広げられるが、結局党内分裂状態が修復できないまま三木は解散権を行使できず、現在まで戦後唯一の任期満了による衆議院議員総選挙をむかえた。この選挙では挙党協は党本部とは別に選挙本部を設置し、自民党は分裂選挙の様相を示した。総選挙で自民党は511議席中249議席と初めて単独過半数を割り込み、追加公認を含めてやっと260に届いたものの、敗北といってよかった。三木内閣そのものというより、ロッキード事件への批判が自民党自体を直撃したと言えるが、それでも三木は責任を取って退陣した。

なお、この間、ベレンコ中尉亡命事件が起こっている。

 晩年
首相退陣後も三木派を率いて影響力を保持した。1979年(昭和54年)の衆議院議員総選挙後には大平正芳首相の引責辞任を求めて福田派・中曽根派とともに田中派・大平派と対決、いわゆる四十日抗争を引き起こす。1980年(昭和55年)の衆参同日選挙後に河本敏夫に派閥を継承させる。主流派の三木アレルギーを解消するため三木派を解消するかたちをとったが、その後もベテラン議員を中心に影響力を維持した。1980年代には岸・福田らとともに自民党最高顧問を務めた。1984年(昭和59年)の二階堂擁立構想にも福田や鈴木善幸とともに一枚噛んでいる(二階堂進は田中派会長だったが、三木とは同じ元国民協同党で個人的には仲が悪くなかった)。1987年(昭和62年)、衆議院議員在職50年となり、永年在職議員の特別表彰を受ける(この表彰を受けることを目標にし式には這ってでも出たいと語っていたが病床にあり公の場に出てこれる状態に無かったため、睦子夫人が代理に受け取った)。1988年(昭和63年)、議員在職のまま死去。81歳没。

 

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