谷垣禎一

谷垣禎一

谷垣 禎一(たにがき さだかず、1945年(昭和20年)3月7日 - )とは、日本の政治家、衆議院議員(10期)。自由民主党総裁(第24代)である。


 人物概要
科学技術庁長官(第56代)、金融再生委員会委員長(第3・4代)、国家公安委員会委員長(第69代)、産業再生機構担当大臣、財務大臣(第3・4・5代)、自民党政調会長(第50代)、国土交通大臣(第9代)などを歴任した。

旧加藤派を継承して宏池会(谷垣派)会長に就いた後、古賀派との合流後は代表世話人を務めている。きょうと青年政治大学校第3代学長を務めた。

文部大臣(第100代)を務めた谷垣専一の長男。影佐禎昭元陸軍中将は祖父。

 経歴
 政界入り 宏池会のホープ
京都府福知山市出身。麻布中学校・高等学校を経て、東京大学法学部を卒業。短期間の弁護士生活を経て、元文相で父・谷垣専一の死去に伴う補選で父の地盤を引き継ぎ、1983年(昭和58年)旧京都2区補欠選挙に自民党より出馬し初当選、選挙区に20日間泊り込んで支援した白川勝彦や亡父も属した宏池会に所属。この補選では前尾繁三郎の死去にともない、同じ2区から野中広務も当選している。

自民党では早くから将来を嘱望された。1996年(平成8年)に『文藝春秋』が企画した「現役政治部記者が選ぶ21世紀のリーダー」では既に3位に選出されており(1位は鳩山由紀夫)、そこでは「政策通でありながら議運・国対で汗をかける政治家」として評価されている。1993年(平成5年)の非自民連立政権では野党自民党の国会対策の中心を担い、1995年(平成7年)に衆院議院運営委員長。1997年(平成9年)、第2次橋本内閣改造内閣の科学技術庁長官として初入閣。

1998年(平成10年)の金融危機にあって、小渕恵三総理大臣は宮澤喜一に大蔵大臣就任を要請。宮澤が就任条件の一つとして谷垣の政務次官就任をあげたため、閣僚経験者でありながら次官となった。続く「金融国会」において金融二法の成立に尽力、引続き国務大臣・金融再生委員会委員長に抜擢されたことで、経済政策のエキスパートとしての評価が高まった。

続く森内閣では、2000年(平成12年)の加藤の乱に際して加藤紘一と行動を共にして挫折。この際、山崎拓と二人だけで本会議に不信任票を投じに行こうとする加藤に対し、「加藤先生、あなたは大将なんだから! 一人で突撃なんてダメですよ!」と慰留するシーンが話題となり、テレビで度々放送された。

 小泉政権~総裁選初出馬
 
2003年9月30日、アメリカ合衆国にて「加藤の乱」後は宏池会分裂により一時厳しい立場に追い込まれたが、2001年(平成13年)に小泉純一郎が首相となると谷垣は重用され、2002年(平成14年)秋以降は常に閣僚の座にあった。とりわけ要職である財務大臣を3年にわたって無難に務めあげたことで表舞台での活躍が増し、広く認知されるきっかけとなった。党でも2005年(平成17年)、小里貞利の引退により、会長席が空いた宏池会・小里派から加藤紘一最高顧問が離脱したのを機に、谷垣派を形成して派閥の領袖となる。こうして名実ともに総裁候補となり、ポスト小泉「麻垣康三」の一人と目されるようになっていき、2006年(平成18年)9月の総裁選初出馬へと至った。

総裁選にあたっては、政権構想として

財政再建(2010年代半ばまでには消費税を10%に引き上げ)
東アジア外交の立て直し(在任中は靖国神社参拝を控え、日中韓首脳同士が常時対話をとれる「アジアホットライン」の構築)
地域社会の活性化(法人税、地方交付税などの税体系の見直しを通じた税収の地域間格差の是正にとりくむ)
といった政策を提示した。

9月20日、投開票が行われた結果、谷垣は703票中102票(国会議員66・地方36)を獲得。安倍晋三、麻生太郎に次いで最下位に終わったが、投票までの論戦で政策的に安倍・麻生との対立軸を明確に打ち出して目標としていた三桁の票を確保したことは健闘と評価された。

 安倍・福田・麻生政権と宏池会再結集
敗北に終わった総裁選をうけて成立した安倍政権では、谷垣派からの閣僚・党三役への登用はゼロで、党内非主流派に回ることになった。与党が過半数割れした2007年7月の参院選後は、安倍内閣の政治姿勢に対して公然と疑問を呈するなど批判の度を強めていたが、直後の内閣・党役員人事でも谷垣派からの要職起用は無かった。

同年9月、安倍総理の突然の辞任を受け、2007年自民党総裁選への出馬を検討したが、福田康夫の立候補にともない派としての支持を約束、自らの立候補は見送った。総裁に就任した福田からの要請で政調会長に就任、初の三役入りを果たした。

福田政権の誕生を機に、懸案であった宏池会再結集の動きが一気に具体化し、翌年1月には古賀派との合併が決定(「中宏池会構想」)。5月に発足した新派閥では代表世話人となったが、新派閥の総裁候補は棚上げされたままで、派内には麻生支持議員も少なくなく、派として谷垣を一枚岩で支援する体制は整わなかった。谷垣自身、政調会長として十分に指導力を発揮したとはいえず、手腕にしばしば疑問の声があがった。2008年(平成20年)8月2日の内閣改造では国土交通大臣に就任。翌月の福田退陣表明による総裁選では出馬に意欲を見せたが、福田政権の責任者という立場も考慮し出馬を断念、宏池会は自主投票となった。同総裁選では世代交代をアピールした若手の出馬表明が相次いだ他、足元の宏池会からも与謝野馨や麻生を率先して支持する議員が現れるなど、2回続けて出馬を見送った谷垣の総裁候補としての立場は微妙なものとなっていた。

自民党が野党に転落することになった2009年(平成21年)総選挙では、対抗馬である民主党の小原舞の猛追を受けながらも小選挙区で当選した。

 自由民主党総裁
 2009年
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自民党新総裁に谷垣氏
2009年(平成21年)9月28日、有効投票総数499票中300票を獲得し、第24代自由民主党総裁に選出された。内閣総理大臣未経験者の自民党総裁就任は河野洋平に次いで2人目である(ただし、河野洋平は森喜朗の計らいで衆議院議長に就任している)。「弁護士経験者たる自民党総裁」も初代・鳩山一郎以来2人目。

10月、政権奪還を意識する観点から自民党「影の内閣」の設置に意欲を見せていたが、党内から「『影の大臣』と『大臣』の名がつけばポスト争いが始まる」との異論が出たため、構想は頓挫した。

 

 

 

 

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