石破茂
石破 茂(いしば しげる、1957年(昭和32年)2月4日 - )は、日本の政治家。自由民主党所属の衆議院議員(8期)。同党の政調会長。防衛庁長官(第68・69代)、防衛大臣(第4代)、農林水産大臣(第49代)を歴任した。
父親は建設事務次官、鳥取県知事、自治大臣兼国家公安委員会委員長などを歴任した石破二朗。
経歴
鳥取県八頭郡郡家町(現八頭町)出身。
慶應義塾大学法学部卒業後、三井銀行に勤務する。1981年、父・石破二朗が死去し、一周忌が済んだ頃、父二朗の友人だった田中角栄に呼びつけられ、田中から「おまえがあとに出ろ」と強く薦められたことが政界入りのきっかけである。
1986年7月の衆院選で鳥取全県区で立候補をして初当選し、中曽根派に所属。以後連続当選8回。93年に政治改革法案をめぐって自民党から役職停止処分を受けて離党、97年に復党するまで新生党、新進党を渡り歩いた。
もともとは農水族として地歩を築いたが、自身が「国防がライフワーク」と語るとおり、「新国防族」などと呼ばれる安保通として頭角を現し、防衛政務次官、防衛副長官、拉致議連の会長などを務めた。
2002年8月に小泉純一郎首相が翌月の訪朝を決めた際、「拉致被害者全員を連れて帰らなければ倒閣に動く」と発言。結局は拉致被害者のうち5人の帰国にとどまり、石破の言った成果は得られなかったが、直後に発足した第1次小泉内閣第1次改造内閣において防衛庁長官に指名されるや、拉致議連の会長を辞任して初入閣を果たし、以後「倒閣」に触れることはなかった。
その後、有事法制の制定に尽力し、防衛庁長官在任中にイラク戦争が勃発すると自衛隊イラク派遣を決定した。防衛庁長官の在任期間は、坂田道太に次ぐ歴代第2位。2007年福田内閣で再度防衛大臣として入閣。翌2008年の自由民主党総裁選に初出するも5位に終わった。地方票は4票だった。続いて成立した麻生内閣では、前任者たちの多くが不祥事に見舞われ、「鬼門」とされていた農林水産大臣に就任した。
2009年9月29日、前日に自由民主党総裁に選出された谷垣禎一の下で、政調会長に就任(党鳥取県連によると、県選出国会議員からの党三役就任は初めて。
2010年4月14日、会見でたちあがれ日本について、「私自身、新党『たちあがれ日本』に参加した与謝野馨と園田博之とは、政策的に非常に近いスタンスだ。2人は、自民党で中心的な政策の立案をしてきており、共闘していくのは当然だ」「『たちあがれ日本』とは、『民主党の過半数を阻止しなければならない』という思いは共通しており、今後、政策面で共同歩調をとることは多々ある」と述べ、たちあがれ日本と共闘する可能性を示唆し、講演でも「ともに民主党を倒すという思いなら、罵詈雑言や裏切り者などという前に、どうやって共闘するか考えるのが大事だ」と述べ、たちあがれ日本と協力する可能性に言及した。
2010年9月、自民党政調会長に再任。当初、谷垣総裁は石破を退任させ、林芳正政調会長代理を昇格させる人事を構想したが、党内の反対論を受け、石破を政調会長に留任させた。石破と共に政権力委員会の本部長代理を務める石原伸晃組織運動本部長、小池百合子広報本部長はそれぞれ幹事長、総務会長に就任し、党三役は全員50代が占めることとなった。
生年月日 | 昭和32年2月4日生 |
出身地 | 鳥取県八頭郡八頭町(旧郡家町) |
昭和54年3月 | 慶應義塾大学法学部卒業 |
54年4月 | 株式会社三井銀行入行 |
58年1月 | 株式会社三井銀行退行 |
61年7月 | 衆議院議員当選(第38回総選挙) |
平成2年2月 | 衆議院議員当選(第39回総選挙) |
4年12月 | 農林水産政務次官(5年6月まで) |
5年7月 | 衆議院議員当選(第40回総選挙) |
8年1月 | 衆議院規制緩和に関する特別委員長(8年9月まで) |
8年10月 | 衆議院議員当選(第41回総選挙) |
10年8月 | 衆議院運輸委員長(11年10月まで) |
12年6月 | 衆議院議員当選(第42回総選挙) |
12年7月 | 農林水産総括政務次官(12年12月まで) |
12年12月 | 防衛総括政務次官(13年1月まで) |
13年1月 | 防衛庁副長官(13年4月まで) |
14年9月 | 防衛庁長官(16年9月まで) |
15年11月 | 衆議院議員当選(第43回総選挙) |
17年9月 | 衆議院議員当選(第44回総選挙) |
19年9月 | 防衛大臣(20年8月まで) |
20年9月 | 農林水産大臣 |
21年8月 | 衆議院議員当選(第45回総選挙) |
21年9月 | 自由民主党政務調査会長(現職) |