毎日新聞
毎日新聞(まいにちしんぶん)は、日本の新聞のひとつ。発行部数は324万部。毎日新聞社が発行している。
かつては朝日新聞と共に2強に数えられていたが、その後の拡販競争と経営危機で遅れをとったのと、1960年代後半から1970年代前半に掛けて読売新聞の発行部数が躍進したことにより、現在では読売新聞、朝日新聞に大きく水を開けられている(この2紙と毎日をあわせて三大紙と呼ばれる)。
「毎日新聞」という名前ではあるが、他紙と同様に毎年1月2日は朝刊も夕刊も発行されない。
現在のスローガンは、「報道に近道はない。」。
新聞販売店の愛称は「毎日ニュースポート」であるが、近年は余り呼称される機会が少ない。
沿革
1872年3月29日(明治5年2月21日) 『東京日日新聞』、東京浅草の日報社から創刊。
1875年 『東京日日新聞』、新聞の個別配達実施。
1876年 日報社、『中外物価新報』の印刷発行を三井物産から請け負う。
1882年 『日本立憲政党新聞』大阪で創刊。(1885年、『大阪日報』と改題。さらに1888年、『大阪毎日新聞』と改題)
1906年 大阪毎日新聞社、東京の『電報新聞』を買収、同紙を『毎日電報』に改題して東京進出を果たす。
1911年 大阪毎日新聞社は日報社を合併(『東京日日新聞』と『大阪毎日新聞』の題号はそれぞれ変更せず)。大毎発行の『毎日電報』を『東京日日新聞』に吸収させる(東京日日は地紋の桜模様や「余録」欄等を継承)。
1924年 選抜中等学校野球大会(現:選抜高等学校野球大会)開始。主催。
1926年12月25日 大正の次の元号を「光文」と誤報(光文事件)。
1936年 『東京日日新聞』が『時事新報』を合同。
1943年1月1日 東西で異なっていた題号を『毎日新聞』とする。
1951年 名古屋の中部支社を中部本社に昇格。名古屋での新聞の発行を再開。
1952年 共同通信社を退会。
1959年 札幌に北海道支社を新設。北海道でも新聞の発行を開始。
1965年 西部本社、北九州市門司区から現在の小倉北区の『毎日西部会館』に移転。
1966年 東京本社、有楽町から現在の竹橋(パレスサイドビルディング)に移転。
1967年6月15日 西部本社セット版地区(福岡県、山口県の一部など)の地方版を2ページにする(地方版ワイド化のはしり)。
1971年3月12日 西部本社で輪転機八台を損傷する火災が発生する。
1972年 沖縄返還協定密約をめぐる「外務省機密漏洩事件」(いわゆる「西山事件」)発生。
1976年 「記者の目」欄開始。(その後記者の目(テレビ版)が5社ニュースなどで放送された)
1977年 負債を整理する旧社(株式会社毎日)と、通常の業務を行う新社(株式会社毎日新聞社)とに分離する「新旧分離」方式で会社を再建。登記上の本店を大阪から東京に移転。
1985年 新旧両社が合併し会社再建計画終結。
1987年8月30日 東京本社・北海道支社発行版の紙齢が4万号。
1991年11月5日 題字を現在使用しているコバルトブルーに白抜きで『毎日新聞』と明朝体で書かれた物に変更。題字上部のCIマークは“毎日の目”をイメージする。
1992年 大阪本社、堂島から現在の西梅田に移転。
2002年 創刊130周年を迎える。
2003年 中部本社が名古屋駅前のビル建て替え(トヨタ自動車と共同)のため、名古屋市中区正木の日本経済新聞名古屋支社の旧社屋ビルに仮移転。
2006年 中部本社が名古屋駅前のビル「ミッドランドスクエア」完成に伴い再移転。
2007年12月10日 この日から従来より大きな書体「J字」を採用。他紙の書体の大型化のきっかけを作った。
2008年8月30日 売上の落ち込みから、北海道支社管内の夕刊を廃止。
2010年4月1日 共同通信社に再入会。同時に同日に共同通信社加盟の地方紙と記事配信などで包括提携する。
全国紙への道
『東京日日新聞』は1872年条野伝平、西田伝助、落合幾次郎が創刊した東京最初の日刊紙。当初は浅草茅町(現在の浅草橋駅近辺)の条野の居宅から発刊したが、2年後銀座に社屋を建てて進出。雑報入りの「新聞錦絵」が東京土産として話題を呼んだ。1873年岸田吟香が入社し、平易な口語体の雑報欄が受け大衆紙として定着するも、1874年入社と共に主筆に就任した福地源一郎が社説欄を創設してから、紙面を一新。政府擁護の論陣を張る御用新聞となり、自由民権派の政論新聞と対抗した。桜痴(福地源一郎)の社説、 吟香の雑報、それに成島柳北の雑録が、 この新聞の三大名物と謳われた。
しかし、1880年頃から政府批判の高まりとともに「御用新聞」との批判も強まった。1888年、社長交代を契機に論調を中立路線に転換し大幅に部数を伸ばすが、1891年に長州藩閥の機関紙と化し、再び政府寄りとなる。その後伊藤博文や井上馨、三井財閥の支援を受け、1904年には三菱財閥により買収。加藤高明が社長に就任するが経営不振は打開されず、1911年『大阪毎日新聞』に買収された。
『大阪毎日新聞』は明治初期には政治色が強かったため経営上振るわなかったが、1889年から穏和な論調に転換、広告収入の増加もあって『大阪朝日新聞』(現『朝日新聞』)と並ぶ関西の有力紙となっていた。
第一次世界大戦の勃発を他紙に先駆けて報道。ロシア革命の報道やレーニンの会見でも注目を集める。シベリア出兵には慎重論をとり、国内問題では米騒動などの社会問題も取り上げ、普通選挙運動にも賛成の立場をとったが、同様の論調をとる東西『朝日新聞』と覇権争いを全国的に繰り広げた。こうした動きは結果的に両社の発展につながったと言える。
業績を回復した『東京日日新聞』は、大正期には東京五大新聞(報知・時事・國民・東京朝日・東京日日)の一角に数えられ、関東大震災も大毎のバックでこれを乗り切った。震災報道では朝日陣営の後手に回ったが、報道そのものは東京日日の方が評価が高かったとされる。この後、東都新聞界は大阪資本の朝日・東京日日の二強体制となり、1929年には『國民新聞』主筆の徳富蘇峰が移籍。1936年には『時事新報』を合同した。1939年東京・有楽町に完成した新社屋には当時東京でも珍しいプラネタリウム「東日天文館」が設置され、壁面には電光ニュースがまたたいた。
太平洋戦争(大東亜戦争)中は他紙と同様、戦争翼賛報道を行った。
1943年、題字を『毎日新聞』に統一。名実共に全国紙となった。