石原伸晃

石原伸晃

石原 伸晃(いしはら のぶてる、1957年4月19日 - )は、日本の政治家である。自由民主党所属の衆議院議員(7期)。自由民主党幹事長。

行政改革・規制改革担当大臣、国土交通大臣(第2代)・内閣府特命担当大臣(観光立国担当)、自由民主党政務調査会長などを歴任した。現在、自由民主党幹事長、全国組織本部長、自由民主党東京都連合会会長、TOKYO自民党政経塾主宰。日本OPヨット協会会長。

 人物
神奈川県生まれ。慶應義塾大学文学部卒業。日本テレビ放送網勤務を経て、1990年(平成2年)より衆議院議員を務める。身長178cm、体重69kg、血液型A型。

参議院議員、衆議院議員、環境庁長官、運輸大臣を歴任した東京都知事の石原慎太郎を父親に持つが、親子の間には選挙区の重複がなく、後援会や地盤の引き継ぎはないため、いわゆる世襲政治家には分類されない。

 政治家として
いわゆる「政策新人類」の代表格として知られる。1998年(平成10年)の「金融国会」では金融再生関連法案の成立に尽力した。森内閣においては政権批判の急先鋒で、「加藤の乱」に連座するなどしたが、続く小泉内閣では行革担当大臣、国土交通大臣と重用され、道路公団問題などに取り組んだ。続く安倍内閣の党人事でも幹事長代理、政調会長に就任した。

一方では、自民党寄りのメディアにすら『チャンスに打てない中軸打者』と呼ばれるほど、「お坊ちゃま」ゆえに「打たれ弱い」と評されることもあった。

2001年10月、大臣時代に「北海道の道路は車が走っている数よりヒグマが走っている数のほうが多い」と発言し、その発言に激怒した鈴木宗男から猛抗議を受けた。2008年9月1日の福田康夫総裁辞任表明を受けて行われる自民党総裁選挙には、9月3日まで山崎拓らが慎重姿勢を示した影響もあってか、出馬をする意向を見せていなかったが、9月4日には与謝野馨らと共に、出馬への意欲を示した。9月9日には、出馬表明を決定した。しかし、9月7日のサンデープロジェクトで、小泉路線の二の舞になるのではないかと、批判されていた。9月15日の釧路での演説では「釧路から札幌まで高速道路はつながります。(中略)道路がつながって整備されて、皆さんに活用される社会資本整備になると、私、石原伸晃は確信している」と述べた。

たばこと健康を考える議員連盟所属。日朝国交正常化推進議員連盟所属。役員を務める。

道路公団民営化
小泉政権の主要政策の一環として、道路公団民営化を任せられ脚光を浴びるも、道路族の猛攻を抑えることができず、妥協を重ねて屈したとする評価が多い[2]。自身も、「最終報告には実現不可能な部分もある」と弱気なコメントを残している。
道路関係四公団民営化推進委員会委員長代理であった田中一昭(政府民営化案の妥協策を不服として辞表を提出した)からは「偽りの民営化—道路公団改革」という暴露本を通じて「経綸を持たず、むしろ無能ぶりを天下にさらした」と酷評された。
国土交通大臣時代、日本道路公団総裁藤井治芳を解任した。藤井は解任取消を求めて東京地方裁判所に提訴。2006年9月6日に解任処分は相当であると、石原勝訴の判決が下された。
新銀行東京
父親で都知事である石原慎太郎の提唱で都税1000億を投入して設立された新銀行東京に対して、石原伸晃の元私設秘書が決算書類の改ざんを知りながらもブローカーの仲介を引き受け、自民党都議に口利き仲介していたことが判明している。石原伸晃事務所は「(元秘書は)既に退職しており、口利きなどについては承知していない」としている。その後、石原慎太郎都知事は「口利きするのは、それこそ政治家の仕事」として政治家の口利きを肯定する発言をしている。
2008年10月26日にNHKの番組に出演し、金融危機で経営不安に陥っている金融機関への資本注入を実現する金融機能強化法改正案に関して、「法律の中には銀行(「新銀行東京」と「金融危機で苦しんでいる銀行」)に区別はない」と述べ、2008年秋の世界的な金融危機とは無関係に経営が行き詰まっている新銀行東京も対象に含まれるとの見解を示した。これに対して11月2日に自民党園田博之政調会長代理がNHKにて「(出資している)東京都が立て直しに責任を持つべきだ。今注入できるとは思えない」と否定的な見解を示している。
政治資金
消費者金融業界の政治団体「全国貸金業政治連盟」(全政連)からパーティー券購入などにより資金提供を受けている 。
道路特定財源を資金源とする道路運送経営研究会(道路特定財源の一般財源化に反対している)から献金を受けている。
日歯連前会長の臼田貞夫(贈賄容疑で逮捕)と関係が深いなど、日本歯科医師連盟との繋がりで知られ、4000万円の迂回献金を受け取っていたことが発覚している。

 年表
1970年 - 鎌倉市立御成小学校卒業
1973年 - 慶應義塾普通部卒業
1976年 - 慶應義塾高等学校卒業
1978年 - エルマイラ大学(ニューヨーク州エルマイラ)留学
1981年 - 慶應義塾大学文学部社会学科(都市社会学専攻)卒業後、日本テレビ放送網に入社し、大蔵省・外務省・首相官邸などを担当する報道局政治部記者を務める
1989年 - 日本テレビを退社
1990年 - 第39回衆議院議員総選挙では旧東京4区から保守系無所属として立候補し、2位で初当選(同選挙区1位は自民党の粕谷茂)。この時の第一秘書は、後に民主党衆議院議員となった長島昭久。
1993年 - 第40回衆議院議員総選挙では自民党公認で立候補し、5位当選で最下位ながらも再選を果たす。
1996年 - 小選挙区制導入後初の第41回衆議院議員総選挙に東京8区から立候補し、後に杉並区長に就任する新進党の山田宏を約7000票差で下し、3選。通商産業政務次官に就任
2001年 - 小泉内閣で特命担当大臣(行政改革担当、規制改革担当)として初入閣
2003年 - 国土交通大臣に就任( - 2004年9月)
2004年 - 党金融調査会長に就任
2005年
党道路調査会長に就任
11月 - 法務委員長に就任
2006年9月 - 自由民主党幹事長代理に就任。党選挙対策本部副本部長、党改革実行本部長を兼務
2007年
8月 - 自由民主党政務調査会長に就任
12月 - 近未来政治研究会(山崎派)に入会
2008年
9月 - 08年自民党総裁選に立候補したが麻生太郎に完敗。51歳5ヶ月は総裁選立候補者としては歴代最年少。麻生執行部で党幹事長代理に就任
2009年
7月 - 東京都議会議員選挙での敗北の責任を取り、党東京都支部連合会の会長を辞任する意向を表明。しかし、第45回衆議院議員総選挙が迫っているとして、辞任は認められなかった。
8月 - 衆院選で東京8区から公明党の推薦を受け立候補し、保坂展人に圧勝し7選。自民党が下野した直後の09年自民党総裁選では谷垣禎一の推薦人に名を連ねた。谷垣総裁の下で党組織運動本部長に就任。また東京都連会長に再任
2010年
4月 - 政権力委員会(ネクスト・ジャパン)発足に伴い、石破茂政調会長、小池百合子広報本部長と共に本部長代理に就任。
9月 - 谷垣総裁の下で自由民主党幹事長に就任
 

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