海部俊樹

海部 俊樹(かいふ としき)

〔元内閣総理大臣〕

インタヴュー期間 2000年12月18日~2004年11月26日(全35回)
インタヴュアー 伊藤隆、楠精一郎、佐道明広、田中善一郎、岩間陽子、石原直紀
場所 海部俊樹事務所
キーワード 自由民主党、三木派、文教族、海部内閣、湾岸戦争、日米構造協議、五五年体制崩壊、新進党、自由党、保守新党
【インタヴュー内容】
1931年愛知県生まれ。1948年旧制東海中学を卒業、中央大学専門部法科を経て早稲田大学法学部に編入、1954年に卒業した。早大時代には藤波孝生、渡部恒三らと雄弁会に所属した。この間、愛知県選出、国民協同党の河野金昇衆議院議員の秘書となり、三木武夫に知己を得る。海部氏は一時、愛知県議会議員への立候補を考えるが、「県会には外交がない」という三木武夫の勧めにより、立候補を見送っている。その後、河野氏の地盤を継ぎ、1960年11月衆議院議員に初当選、以来15回連続当選を果たしている。
海部氏は自民党青年局学生部長、青年局長時代に、宇野宗佑、竹下登らとともに青年海外協力隊を構想している。また、1966年の佐藤内閣で労働政務次官に就任、その後衆議院議員運営委員長を務め、1974年12月発足の三木内閣では内閣官房副長官に就任した。国会対策委員長を務めたのち、福田内閣で文部大臣として初入閣、藤波孝生、西岡武夫、森善朗、小渕恵三らとともに文教族を形成した。海部氏は以後、自由民主党広報委員長、文教制度調査会長、国民運動本部長、自由民主党筆頭副幹事長を歴任し、第二次中曽根内閣で再び文部大臣となる。1989年には自民党総裁選に出馬、宮澤派の林義郎、安倍派の石原慎太郎を抑え、海部氏が第14代自民党総裁となり、第76代内閣総理大臣に就任した。組閣にあたっては経済企画庁長官に高原須美子、環境庁長官に森山真弓の女性閣僚二人を起用した。海部内閣は、対外的には日米構造協議の決着、湾岸戦争勃発に対処し掃海艇のペルシャ湾派遣を行っている。海部氏は1994年自民党を離党し新進党初代党首となり、自由党最高顧問、保守党最高顧問、保守新党最高顧問を歴任したが、2003年4月、保守新党の自由民主党への合流により自由民主党に復党している。
本オーラルの特徴は、海部氏のライフヒストリーをインタヴューすることにより、岸内閣以後の戦後日本政治史を網羅的に示したことである。経歴に列記したごとく、海部氏は代議士秘書から上りつめ、昭和生まれ初の首相となった。この間の政局、自民党各派閥の領袖と人脈に関する記録は価値あるものである。とりわけ「三木の秘蔵っ子」といわれた海部氏が見た三木内閣の成立事情や、独占禁止法と公職選挙法の改正、三木派内部の実態については詳細な記録である。海部内閣に関しては8回(第25回~第32回)のインタヴューが実施された。また、五五年体制崩壊以後の政党勃興についても、海部氏自身の意見が示されている。各回インタヴューの冒頭においても、時事問題や政局の分析が行われている。なお、第9回から第11回は、湾岸戦争を主題に岩間陽子・石原直紀がインタヴュアーとなり実施されたが、掲載を割愛した。

1个分类: 自民党
关键字: 海部俊樹 閣総理
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