小坂憲次
小坂 憲次(こさか けんじ、1946年3月12日 - )は、日本の政治家。参議院議員(1期)。自由民主党所属。所属派閥は平成研究会。
衆議院議員(6期)、文部科学大臣(第7代)などを歴任。
経歴
東京学芸大学附属世田谷中学校卒業
慶應義塾高等学校卒業
1968年 慶應義塾大学法学部法律学科卒
1968年 日本航空に入社
1984年 日本航空を退社し、長野市に帰り政治活動を開始
1986年 中曽根康弘秘書
1990年 2月 衆議院議員初当選
1993年 7月 衆議院議員2期目当選
1994年 4月 自民党を離党。新生党に入党する
1994年 12月 新進党結成に参加
1996年 10月 衆議院議員3期目当選
1996年 12月 新進党を離党。太陽党結成に参加
1998年 1月 民政党結成に参加
1998年 4月 民政党の民主党合流に参加せず、のちに自民党に復党
1999年 10月 小渕第二次改造内閣の郵政政務次官に就任
2000年 4月5日 森内閣の郵政総括政務次官に就任
6月 衆議院議員4期目当選
10月 第2次森内閣の郵政総括政務次官に就任
2001年 1月 初代総務副大臣に就任
4月26日 小泉内閣の総務副大臣に就任
2002年 1月 総務副大臣を退任
2002年 10月 衆議院財務金融常任委員長に就任
2003年 11月 衆議院議員5期目当選
11月 衆議院議院運営委員会筆頭理事
11月 自由民主党国会対策委員会副委員長
2004年 9月 自由民主党国会対策委員会筆頭副委員長
2005年 9月 衆議院議員6期目当選
10月31日 第3次小泉内閣 改造内閣の文部科学大臣に就任
2006年 9月29日 自由民主党政務調査会筆頭副会長
2007年 8月31日 自由民主党国会対策委員会筆頭副委員長
2008年 9月22日 衆議院議院運営委員長
2009年8月30日 第45回衆議院議員総選挙で落選
2010年7月11日 第22回参議院議員通常選挙の比例区で当選
2010年8月19日 自由民主党参議院幹事長
所属議員連盟
北京オリンピックを支援する議員の会(幹事)
日韓議員連盟(常任幹事)
小坂家
小坂家は信州の名門で曾祖父の小坂善之助は小坂財閥の創業者で政治家としても活躍した。祖父は信濃毎日新聞社主や電源開発総裁を歴任し、善之助同様政治家として活躍した小坂順造。大叔父は元信濃毎日新聞社長の小坂武雄。父は元衆議院議員で外務大臣を務めた小坂善太郎で、叔父は元運輸大臣の小坂徳三郎。大叔母のはる(善之助の次女)は第13代日本銀行総裁の深井英五に嫁ぎ、その長女・結子(憲次の父・善太郎の従姉にあたる)は天体力学の権威で文化勲章受章者の萩原雄祐に嫁いだ。
元日本テレビ放送網社長で2005年現在日本テレビフットボールクラブの会長兼社長を務める萩原敏雄は萩原雄祐の三男で、憲次の又従兄。そして讀賣テレビ放送アナウンサーの萩原章嘉は萩原雄祐の孫で、憲次の又従兄の子息にあたる。
2009年、次期第45回総選挙の自民党マニフェスト(公約)策定プロジェクトチーム座長に内定している菅義偉選挙対策副委員長が、親の地盤を引き継ぐ世襲候補の立候補制限を公約に盛り込むよう提言した。菅の案は現職は適用外としたが、子弟を後継にする場合には選挙区替えが必要になるというものである。4月17日、小坂は党役員連絡会で「もしそういうことなら私は世襲の権化です!」「本当に規制するなら(世襲議員は)党から出ていくべきだということになる。私も覚悟を決めなければならない」と菅の案に反発した。2009年まで、第1回総選挙で当選した衆議院議員の子孫で現職の衆議院議員だったのは小坂憲次だけであり、名実共に「世襲の権化」であるといえる。
エピソード
アマチュア無線家としても知られている。また楽天社長・三木谷浩史とは親交が深い。
1990年代、自由民主党が野党に転落した際に離党、同じ長野県選出の羽田孜率いる新生党移籍、新進党結党参加、1996年清和研若林正俊及び新党さきがけ田中秀征破り再選直後に羽田と共に太陽党旗揚げ、民政党結成。しかし民主党結成不参加で羽田と決別し自由民主党復党。中選挙区時代属した政科研ではなく平成研へ入会した。
2006年4月7日の記者会見で、石原慎太郎東京都知事が国語力の低下を理由に小学校段階での英語必修化を「全くナンセンスだ」と批判したことに対し、「日本語をしっかり勉強することが基本だが、柔軟な頭脳を持っている児童が英語に親しみ、英語教育に取り組むのは決して否定すべきことでない」と英語教育の必要性を訴えた。
2006年2月28日にトリノオリンピック・女子フィギュアスケート金メダリスト荒川静香が文部科学省を訪問の際、「ロシア選手(イリーナ・スルツカヤ)がコケた時は喜びましたね」と発言。この模様はTBSテレビの「ブロードキャスター」で放送された。この件で文部科学省に批判が多数寄せられ、6日後の3月6日に荒川、スルツカヤ両選手に対して謝罪。その後、小坂は自身のホームページで、「ブロードキャスターでは、「コケタ〜」発言のみが指摘されて、健闘を称える発言は放送されなかった」という趣旨の、全く事実無根の意見を掲載した(のちに、この文章は削除)。一方、ネット上では「この正直者!!」などと煽られた。
第91代内閣総理大臣福田康夫(第22代自由民主党総裁)の辞任と内閣総辞職を受けて行われた2008年自由民主党総裁選挙では同じく中選挙区時代は政科研、同じく新進党から復党、同じ平成研に属し慶應高校の後輩でもある石破茂の選挙対策委員長を務める。その際に石破茂総裁選日記というブログを立ち上げたことがきっかけで、小坂自身も同10月よりブログを開始した。
2009年8月30日の第45回衆議院議員総選挙において、自由民主党公認で長野県第1区より出馬するも、民主党公認候補の篠原孝に及ばず、重複立候補した比例代表北信越ブロックでも復活当選はならず、落選した。
2009年9月7日フジテレビの生番組にて、「馬鹿だチョンだと…」と発言したが、誤解を生じる言葉のため直後に訂正した。アナウンサーも番組内で「不適切な発言があった事をお詫びします」と謝罪した。
2010年の第22回参議院議員通常選挙で、比例代表で当選したが、自らが2007年から会長を務めていた「全日本剣道道場連盟」の男性事務局長が、小坂への投票を呼び掛ける文書を、小坂の地元の滋賀県内にある剣道道場に送付していたとして、公職選挙法違反で書類送検されていたことが発覚した。
著作
2006「認定こども園に関する国の指針(2006.8.4)-就学前の子どもに関する教育、保育等の総合的な提供の推進に関する法律の規定に基づき、文部科学大臣と厚生労働大臣とが協議して定める施設の設備及び運営に関する基準-」『保育情報』(358) 、 9〜16ページ、川崎次郎と共著。
2002「これが小泉改革を救う道だ-民主党若手の経済再生構想への対抗提案-」『論座』(通号86)、68〜77ページ、伊藤 達也、鴨下一郎らと共著。