吉田茂

 

外務次官、駐伊・駐英大使などを歴任し、第2次大戦後、幣原内閣の外相。1946(昭和21)年第1次内閣、48~54年第2次から5次に至る内閣を組織し、51年には、サンフランシスコ講和条約・日米安全保障条約に調印して日本の独立を果たし、同時に戦後の国際関係における日本の路線を方向づけた。

「総理大臣は務まると思いますが、総理大臣秘書官は務まりません」=若き外交官時代、旧知の寺内正毅(まさたけ)首相に「秘書官になれ」と言われ、「と答えて「出世」を棒に振った時の吉田の言葉。

「ここに寝ていたら、近衛が出てくるだろうと思ってね」=戦後は、戦犯容疑者に指定されて自殺した近衛文麿(ふみまろ)の家を借りて、来客にと平然と語った言葉。

吉田には、この他いくつかの人を食ったような逸話を残している。

 09年3月22日午前6時ごろ、神奈川県大磯町西小磯の吉田茂元首相の旧邸宅が燃えていると119番があった。県警と町消防本部によると、木造2階建て住宅約890平方メートルをほぼ全焼した。旧吉田邸は吉田茂元首相(1878~1967年)の養父が1884(明治17)年に別荘を建てたのが始まり。戦後、自邸として使うようになった際、日本芸術院会員だった建築家、吉田勝五十八氏に設計を依頼し建て直した。首相辞任後も元首相が亡くなるまで多くの政財界人が訪れ、戦後政治史の貴重な舞台となった。79年には大平正芳元首相とカーター元米大統領の会談が開かれた。

時間は誰をも容赦なく、遠い過去に押し流していく。しかし歴史の舞台だった土地や建物を訪ねると、往時の人たちの記憶が乗り移ってくるかのように、時間が逆流していく感覚に陥ることがある。残念なことに、訪れる前に全焼してしまった。神奈川県大磯町の吉田茂元首相の旧邸宅である。池田勇人や佐藤栄作両元首相ら要人が、教えを請うために「大磯参り(大磯詣で)」(興津詣で)をしていた。あるじが「海千山千荘」(海千山千とは、海に千年山に千年住んだ蛇は竜になるという言い伝えから、せちがらい世の中の裏も表も知っている老獪〈ろうかい〉な人という意味)と命名した理由が分かる気がする。富士山が好きで「西日が差します」と大工さんに忠告されても「かまわないから」と、富士山がよく見える窓をつくらせた。最期の日も富士山を眺めて「きれいだね、富士は」とつぶやいたという(麻生和子著『父吉田茂』から。和子は、1915年5月13日吉田茂・雪子夫妻の3女として中国・安東に生まれる。聖心女学院、ローマの聖心女学院を経て、ロンドン大学で学ぶ。1938年、実業家・衆議院議員の麻生太賀吉と結婚。3男3女をもうける。長男は、衆議院議員・首相の麻生太郎。3女は寛仁親王妃信子殿下。1996年逝去)。杜甫の<国破れて山河在り>ではないが、富士山は昔も今もそびえ立っている。戦後の復興を託された政治家は、その姿に希望を見いだしていたのか。くしくも時代は吉田が生きたころと同じく、復興が政治の最大課題になっている。米国頼みでは乗り切れそうにないのが大きな違いだが、海千山千の政治家の出番ではあるのだろう…旧邸宅は今や見る影もないが、吉田の残した言葉は時間とともに消え去るのではなく、むしろこれからが聞き時といえる。<最も困難な時期は人間の最もりっぱな素質が発揮される時期でもある>。これもその一つである(09年03月24日付『東京新聞』-「筆洗」)。

高知県宿毛(すくも)市出身の自由民権運動家(土佐自由党)竹内綱の子として、1878(明治11)年9月22日、東京で生まれ、生後間もなく実業家吉田健三家の養子となる。学習院から東大に編入学、卒業後、外交官となって中国各地に赴任した後、田中義一内閣の外務次官となる。30(昭和5)年のロンドン海軍軍縮条約締結に際しては幣原(しではら)外相を補佐、その後36(昭和11)年から駐英大使を務めるなど親英米派に転じ、米英との対立を引き起こした軍部と衝突、退官(39年)後は野に下り、(元)内大臣(1885-明治18-年、内閣制度の創設により行政府から独立して設置された宮中の官で、天皇のそばに常に使えて天皇の補佐にあたり、特に大正・昭和時代(戦前)大きな政治的発言力をもったが、敗戦による民主化政策で廃止された)の岳父(がくふ=妻の父。しゅうと)牧野伸顕(のぶあき=大久保利通の次男)ら宮中グループと開戦防止や近衛文麿グループの一員として東条内閣を倒閣し、戦争終結策を企てた。

米軍による日本占領後は、戦時中の行動がGHQに評価されて、戦後の公職追放を免れるばかりか、東久邇(ひがしくに)・幣原(しではら)内閣の外相を務めたのち、鳩山一郎の公職追放のあとを受けて、自由党の総裁(48年から衆院当選7回=選挙区は高知全県区)となり、5次(48年10月~54年12月)にわたる(第45代・第48代・第49代・第50代・第51代)吉田内閣を組織(通算2,616日)、新憲法の制定から1951(昭和26)年の講和(戦争の当事者-交戦国-どうしが話し合い、戦争をやめ平和を回復すること)条約締結等、敗戦直後から講和までの時期の大半、首相の座にあった。

吉田は、国内的には日本の伝統を固守する保守主義を貫いたが、戦後の経済復興には最大の努力をはかり、対外的には対米協調路線をとり、占領政策の遂行や日米安保体制の構築に努めた。

しかしその政治姿勢は、バカヤロー解散に見られるように、傲慢(ごうまん=思い上がって横柄なこと。人を見下して礼を欠くこと)ともいえ、それゆえ、「ワンマン宰相(さいしょう=首相のこと)」とよばれるところとなる。

さらに吉田は積極的に高級官僚を政治家に登用して「吉田学校」(保守本流の租)なるものを形成するが、それはその後の官僚主導の日本的構造の出発点を意味した。門下生のうち官僚出身の池田勇人や佐藤栄作などはその後首相となり、高度経済成長政策を推し進めた。

吉田は、佐藤栄作政権下の1967(昭和42)年10月20日、享年89歳で没し、10月31日日に国葬(国の儀式として国費で行う葬儀)が行われた。なお、戦後の首相経験者の葬儀で「国葬」が行われたのは、吉田のみである。

ところで内閣がかかわる葬儀としては、「国葬」「国民葬」「内閣葬」「合同葬」があリ、鳩山一郎、池田勇人、石橋湛山、宇野宗佑らは「自民党葬」、田中角栄は「自民党・田中家合同葬」、首相在職期間が約8年にわたった佐藤栄作は「国民葬」、岸信介、大平正芳(在任中の死亡)、福田赳夫、小渕恵三(在任中の死亡)らは「内閣・自民党合同葬」、議員在職50年の表彰を受けた三木武夫は、「衆院・内閣合同葬」であった。

 

1个分类: 自民党
关键字: 吉田茂 外務
相关条目:
隐私政策免责声明
版权所有 上海日本研究交流中心 2010-2012