衆議院議长(横路孝弘)

横路 孝弘(よこみち たかひろ、1941年1月3日 - )は、日本の政治家。衆議院議員(10期)。衆議院議長(73代)。
衆議院議員(日本社会党)を5期務めた後北海道知事(第4代、3期)に転じ、再び衆議院議員に復した。

来歴
生い立ち
北海道札幌市に、父・横路節雄、母・美喜の長男として生まれる。節雄は北教組のリーダーから社会党衆議院議員。美喜は、『日本資本主義発達史』の著者である野呂栄太郎の妹である。
中学時代、交通事故で大怪我を負う(そのため卒業まで4年掛かり、16歳で卒業した)[1]。札幌西高校に1年1学期だけ通い転校先の都立九段高校卒業。
東京大学法学部卒。大学在学中から江田五月と親友、社青同学生班で活動。また、在学中1965年24歳で司法試験に合格し、卒業後は司法修習生(20期)、弁護士として全道労協の顧問弁護士などを務めた。
政界入り
1969年父の急死により第32回衆議院議員総選挙に出馬し初当選。日本社会党の「新しい流れの会」幹事を務めるなど若手の論客としてならし、「社会党のプリンス」とよばれた。
1972年衆議院予算委員会で沖縄返還に伴う密約を示した外務省極秘電信を暴露した(情報の取得に違法行為があったとして逮捕者が出た外務省秘密漏洩事件)。
北海道知事として
衆議院で当選連続5回の後、1983年4月の北海道知事選挙に周囲から推される形で立候補。田村正敏率いる勝手連による選挙運動で支持を広げ、自民党、新自由クラブなどの推す前副知事三上顕一郎らを破って初当選した。2期目も自民党など推薦の松浦昭らを退け、3期目は自民党推薦佐藤静雄に100万票以上の圧倒的大差をつけ当選。革新王国といわれる北海道でも前代未聞の大勝であった。自身と69年初当選同期の羽田孜農水相が荒井聰に道庁への転勤を命じ横路の下で知事室長を務めた。
一村一品運動を推進して地域経済の活性化をはかり、第1回アジア冬季競技大会も招致。しかし、地方博ブームにのって行われた1988年の「世界・食の祭典」では90億円という多額の赤字や関係者の自殺などを招き、道議会で問責決議が行われた。道民の間では「ショックの祭典」などと揶揄された。その他カラ出張問題が社会問題化する等財政 悪化の元凶として強い批判を浴びた事もあった。しかしながら依然として当時の無党派層には人気が高く細川政権時代には次の首相候補として上位に名前が出たこともある。
道議会で、自民党議員の質問に対する答弁で「日の丸は国旗、君が代は国歌」と明言し、出身母体の社会党の方針とは異なる内容だったので話題となった(なお、後に衆議院議員として国旗国歌法の採決では反対票を投じている)。同様に、北海道電力泊原子力発電所についても「行政の継続性」を唱えて、反対をしなかった。また歴代の保守系知事がしなかった自衛隊の三軍司令官との会食を行い[2]、道議会での非核三原則決議案については「国が決めているものを地方で決議することに意味がない」と否定[2]、1984年度予算案については野党自民党の要求740項目をほとんど容れた[2]。
その他に、道路建設のために小樽運河を埋め立てるかについても争いがあったが、半分を埋め立て半分を保存するということで決着した。
国政復帰
1995年、3期目の任期満了をもって北海道知事を退任。社会党に復党を求められたがこれに応じず、同年第17回参議院議員通常選挙では東京都選挙区で無所属新人見城美枝子を海江田万里と共に支援したが見城は落選。旧民主党結成に参加。1996年10月に行われた衆議院総選挙で北海道1区から旧民主党公認で立候補し当選して国政復帰を果たした。以後、2009年総選挙まで5回連続、小選挙区で当選している。
鳩山由紀夫が民主党代表に就任時、憲法改正発言を行ったとき辞職を促すなど党内護憲派の代表格。旧社会党系議員を中心にしたグループ、「新政局懇談会」(通称・横路グループ)を率い、民主党内で強い影響力を持つ。一方、改憲論者として知られる小沢一郎との連携には早くから動いていた。2004年には、小沢との間で日本の安全保障、国際協力の基本原則について合意に達し、国連の警察的機能に積極的に貢献するために別組織を作って国際協力を進めるとともに、自衛隊は国土防衛に徹して海外派遣しないことなどを確認した。
2004年の年金未納問題の際に5年8か月間未納であったことが発覚した。
衆議院副議長(2005年 - 2009年)
2005年9月の衆議院総選挙後の第163回国会から衆議院副議長を務めた。
衆議院議長(2009年 - )
2009年8月の総選挙にて民主党が圧勝したことを受けて衆議院議長に就任。衆議院の正副議長を同一人物が歴任するのは原健三郎以来20年振りとなる。また、公選知事経験者の国会議長就任は初めてである。副議長時代から議員指名の際、男性議員は「君付け」、女性議員は「さん付け」と使い分けている[3]。9月17日には衆議院議長として、鈴木宗男事件による賄賂罪で一二審で実刑判決を受けて上告中の鈴木宗男を外務委員長に指名した[4]。
総務委員会でわずか6時間の審議時間で郵政改革法案の強行採決をした与党に対して委員会に差し戻して審議続行を求める野党の要求を退け、2010年5月31日に定例日ではない月曜日に、各党国対委員長が協議中に抜き打ちで本会議の開会のベルが鳴らす一方で、同時並行していた中国の温家宝首相に対する歓迎行事に対処するために、度々の休憩[5]を繰り返した末に、本会議で郵政改革法案の採決をする異常な議事を行った。

人物
日本民主教育政治連盟に所属しており日本教職員組合を支持基盤としている。
かつてMPD・平和と民主運動呼びかけ人や平成維新の会顧問だったことがある。
北海道知事時代は、前述のとおり、大規模イベントの開催に熱心だったが、現在では、静岡空港建設反対の国会議員署名活動で署名者に加わる[6]など、大規模公共事業に批判的な立場を取っている[7]。
外国人への地方参政権付与については肯定的な立場を見せている[8]。
日本麻雀連合会総裁を務めている。

所属議員連盟
子供の未来を考える議員連盟
障害者国際会議推進議員連盟副会長
日朝友好議員連盟
日本民主教育政治連盟
北京オリンピックを支援する議員の会顧問。
在日韓国人をはじめとする永住外国人住民の法的地位向上を推進する議員連盟所属
北方領土返還・四島交流促進議員連
民主党知的財産制度改革推進議員連盟
民主党難病対策推進議員連盟
民主党日英議員連盟

略歴
経歴
1941年
1月3日- 出生。
1965年
司法試験合格。
1966年
3月 - 東京大学法学部卒業。
1968年
弁護士登録。

政歴
1969年
12月29日 - 第32回衆議院議員総選挙(旧北海道1区・日本社会党公認)当選。
1972年
12月10日 - 第33回衆議院議員総選挙(旧北海道1区・社会党公認)2期目当選。
1976年
12月5日 - 第34回衆議院議員総選挙(旧北海道1区・社会党公認)3期目当選。
1979年
10月7日- 第35回衆議院議員総選挙(旧北海道1区・社会党公認)4期目当選。
1980年
6月22日- 第36回衆議院議員総選挙(旧北海道1区・社会党公認)5期目当選。
1983年
北海道知事選挙(無所属)当選。
1987年
北海道知事選挙(無所属)2期目当選。
1991年
北海道知事選挙(無所属)3期目当選。
1996年
10月20日- 第41回衆議院議員総選挙(北海道1区・旧民主党公認)6期目当選。
2000年
6月25日- 第42回衆議院議員総選挙(北海道1区・民主党公認)7期目当選。
2003年
11月9日- 第43回衆議院議員総選挙(北海道1区・民主党公認)8期目当選。
2005年
9月11日- 第44回衆議院議員総選挙(北海道1区・民主党公認)9期目当選。
衆議院副議長就任
2009年
8月30日- 第45回衆議院議員総選挙(北海道1区・民主党公認)10期目当選。
衆議院議長就任
 

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